奄美大島の大自然がもたらす車輪梅の泥染め、染色技法として大変…
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問屋の仕事場から
- 2018.06.27
- 英雄の名前を冠した大島紬の西郷柄
NHK大河ドラマ「西郷どん」、鈴木亮平さんが演じる西郷隆盛と二階堂ふみさんが演じる愛加那の奄美大島でのひと時、出会いと別れ、そして再会を果たした二人のドラマに感動を覚えた人も多いのではないでしょうか。大島紬の柄にはそんな西郷隆盛の名前を冠した「西郷柄」が存在します。
最初にことわっておきますが、西郷柄という名前は西郷隆盛自体が発案したり好んで着ていたものではありません。利休の名を冠した利休バッグや利休鼠のように本人とは直接関係のない極めて商業的なネーミングです。
国難に立ち向かう幕末志士の熱い物語は、いつの世も人気がありますが、維新の立役者としての代表的人物の一人が西郷隆盛です。その最後は明治幕府に反する立場として失意の結末を遂げ、新政府で活躍する機会は与えられませんでした。逆賊であったにもかかわらず、その人気の秘密は彼の情に熱い人柄にありました。
大島紬の西郷柄の由来となったそのストーリー、少し長くはなりますが奄美と大島紬の歴史を語る上でとても重要なので紹介したいと思います。
薩摩の支配と西郷隆盛
幕末、安政の大獄のあおりを受けて西郷は不遇な島流し(犯罪者扱いではなく保護を目的とした謫居)に処されます。国情が激動する中、流人として奄美大島にたどり着いた西郷は自暴自棄に陥りました。薩摩からやってきた正体不明の大男(身長180cm、体重100㎏以上)を島民が警戒、距離を置くのは当然のことです。西郷が大久保利通への手紙の中では悲しみと失意に満ちた現状と島の人々に対する不満を手紙に書き綴っており、しばらくは島の生活に馴染めなかったことがうかがえます。
当時奄美大島は薩摩藩の直轄地として支配下に置かれており、サトウキビからとれる黒糖は年貢として藩に納められ、自由な売買ができませんでした。藩にとっても砂糖は収入として重要なもので、農民に対しては厳しいノルマが与えられ、島役人によって過酷な取り立てが行われていました。独自の奴隷制度も存在しノルマを達成できないと拷問が加えられ、死に至る人々もいたようです。この黒糖地獄とも呼ばれる島津家の圧政は今でも禍根を残していて、今でも大島紬の産地組合が奄美と鹿児島市に分かれて独立している一因が垣間見られます。
天候起因による不作にもかかわらず、理不尽で苛烈な年貢の取り立てを見かねた西郷は代官である相良角兵衛に奴隷解放と処遇改善を強く求めます。相良と西郷は旧知の仲でしたが、流人同様の西郷の意見を聞き入れようとはしません。しかし藩の要人である西郷にこのことを御上に上申すると言われるとそのまま無下にするわけにはいきませんでした。
そして西郷は藩から俸禄として与えられた米(年6石=900㎏)を自分の分を顧みずに困窮している人たちに分け与えます。また非合理な迷信を流布する巫女を打ち負かしたり、教育を受ける機会のなかった人々に読み書きなどの学問を教えるなど、徐々に島民たちに慕われるようになりました。そのような情に熱い西郷に対し、龍郷村の有力者の娘を島妻として娶らせる話が持ち上がります。後に愛加那と呼ばれることになったその娘との間に1男1女をもうけ、いっそう島の生活に溶け込んでいきました。余談ですが長男は後の京都市長を務めることになります。このままお召返がなければ島に骨を埋めてもよいと思うほど、奄美の自然と人々は失意の西郷を癒したのでした。
しかし島の生活はいつまでも続きません。島に来て3年がたつ頃、島津久光からの召喚状が届くと家族を島に残し鹿児島に帰ってしまいます。のちに二人の子は自分のもとに呼び寄せますが島に残された愛加那を正妻とすることはなく、3年後には別の女性と結婚し、手紙の類も一切出さなかったといいます。情に厚い西郷にしてはひどい気もしますが、国難に立ち向かい明日の身の保証もできない中、苦悩の上での決断だったのかもしれません。
鹿児島に帰った西郷は島の困窮具合を藩に切実に訴えます。西郷により農民が救われたとの美談が伝えられますが、西郷はあくまでも支配者である薩摩側の人間です。生産主体である農民たちの視点に立つことで、現在のような苛烈な支配では生産性が上がらないと考えたのかもしれません。西郷はあくまでも藩(島津公)のために忠義を尽くす人間ではありますが、情に厚く御上や権力にはっきりとモノを言う性格は島民の信頼を得たことは確かです。
県から見捨てられた奄美は大島紬に経済を託す
その後西郷らを中心として廃藩置県が成し遂げられ、奄美は島津家の支配から解放されることになります。しかし奄美群島は本土の自治体とは扱いが異なり、鹿児島県庁により管理される島嶼町村制が敷かれます。そして島の経済の中心である製糖業は県が作った企業「大島商社」の管理体制におかれ、自由取引ができない仕組みが作られます。この大島商社の活動は没落した旧士族の救済という側面があり、西郷がその設立に関わっていました。薩摩の支配から解放されても砂糖を自由に販売できない状況は変わらず、耐えかねて大蔵省への直訴に踏み切る動きがある程でした。仲間の士族の救済事業が、かつて親交を深めた島民を引き続き苦しませることにつながったのは西郷にとって不本意だったことでしょう。
薩摩藩を引き継いだ鹿児島県は奄美に対してインフラ整備や教育といった必要な投資をすることはありませんでした。自分たちと文化や風土が違うということで奄美を別扱いしたのです。県から必要な行政支援が受けられない奄美は独立採算を求められます。そこで全島を挙げて取り組むことになったのが大島紬の生産でした。
それまでは砂糖とおなじく年貢として存在していた大島紬ですが、自由な売買が許可されると大阪や京都といった集散地の問屋を通じて全国に広まります。技術革新と品質改善によりその名声は高まり、順調に生産は増え島の経済を支えます。その人気をうけて地元で作る紬糸では供給が間に合わず、玉糸や生糸を使うようになりました。明治34年には組合が結成され検査体制が整います。締め機が開発されると大島紬は黄金期を迎え、島民の半数以上が何らかの形で大島紬の生産に従事するという一大産業に発展したのです。
英雄の名前を冠した最高の大島紬
大島紬の生産量が増えるに従い、絣技術も高度化し、複雑さを競うように進化していきます。男物の代表的な柄は十絣や亀甲柄といった精緻な絣を駆使したものですが、その上をいく逸品として「西郷柄」が開発されました。
締機による精緻な絣づくりにより格子柄の中に更に絣模様を入れ込むことが可能になりました。高度な技術が要求されるこの最高級品に相応しい名前、それが島にゆかりのあるヒーロー、西郷隆盛の名前を冠することになったわけです。一様にに西郷柄といっても様々な柄があり、当時は織られている集落ごとの特徴があったといいます。しかし格子の中に更に絣を入れ込むという凝ったつくりは共通しており、どれも島の英雄の名前に恥じないものとなっています。
しかし、この高度な技が必要な逸品はいつまで作り続けられるかわかりません。大島紬の生産数が萎む中、需要の少ない男物(しかも高額な特殊品)の製造をしようという織元は少なくなっているからです。技術はあっても需要がないので作れないとなっては、遠くない将来その技術も潰えてしまうでしょう。
大島紬の男物といえば亀甲柄一辺倒の傾向が強いですが、他にも様々な趣向を凝らした柄が作られています。大河ドラマ「西郷どん」によって注目を集めている今だからこそ、100年以上続くこの素晴らしい西郷柄を再発見する良い機会になればと思います。