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問屋の仕事場から

2020.09.28
手織りの紬、織物とは? 〜意義編〜

機械化、電動化が進んだ機織り機ですが、いまだに手織りを頑なに守り作られる織物も存在します。一見非効率に思える手作業の連続ですが、なぜ今だに手織りが続けられるのかを考察します。

体全体を使って人力で織り上げる原始的な地機と、作業が自動化されて電力を使う力織機の作業効率を比べると、50〜100倍もの開きがあります。

反物を織り上げるのに一ヶ月かかるものを、たったの数時間で織り上げてしまうのですから、効率だけを考えると手織りに競争力はありません。

しかし伝統的工芸品の中には今だに昔ながらの手織りで作られているものがありますし、作家物と呼ばれる織物も手機を使って作られています。

なぜわざわざ手間のかかる「手織り」で作られているのか、理由をいくつか挙げて考察してみます。

 

技術的に機械織りが困難だから

久留米絣などは絣糸作りをはじめ、製織工程も自動化されていますが、大島紬ほどの微細な絣物になってくると対応が困難です。染め分けた範囲が1mmという精緻な絣、これを経緯でキッチリ合わせるという作業が発生する場合、機械では困難な作業になります。人の目で絣糸を確認して一つ一つ合わせていくしか方法はなく、手織りで少しづつ織り進めて行きます。

9マルキ(カタス)の大島紬、精密な絣合わせは機械では困難。

また、動力を使って機械で織り上げるということは、糸に無理な力がかかります。繊細な糸であれば強い張力に耐えることができませんし、度々糸がプツッと切れてしまいます。特に強い張力がかかったままの経糸は切れやすく、極細の手績み糸が使われる越後上布にいたっては地機でしか織り進めることができません。繊細な手紡ぎ糸や自然布のようなプリミティブな糸、こちらも機械との相性が悪く、手機でゆっくりと慎重に織り進められます。

また、趣向を凝らした作家物など、都度微調整が必要な柄は機械任せが不向きなケースもあります。

微妙に繰り返しパターンが異なる郡上紬、繰り返し同じ動作をする機械には不向き

同じ柄を正確ないちに繰り返すことはプログラム化された機械が得意とするところですが、デザインを意識しながらにランダム調に緯糸が配置する等は機械ではできません。少しづつ織り手がパターンを感性で変えながら織り進めるしかないのです。

 

機械織りの方がコストがかかるから

力織機には導入コストとランニングコストがかかります。数百万円という機械自体の価格に加え、作動させるには電気周りのインフラ整備が必要です。それなりに大きな設備となりますので場所(地代)も要します。

そして作動させてなくても機械には定期的な保守作業が必要ですし、メンテナンスコストがかかります。さらにメーカーが製造を打ち切って、部品在庫がなくなれば、部品の新造には大変なコストがかかります。さらに動かせなくなれば、巨大な産業廃棄物として放置するしかない代物になります。

騒音や電力の問題から一般家庭での作業に向かない力織機。

一方、手織り織機であれば誰かから譲り受けた物(日本中に稼動していない機がゴマンとありますし、分解して持ち運び可能)を使えば導入コストはゼロです。畳一畳ほどのスペースがあればよく、人力で動きます。難しいメンテナンスは不要、100年後も使うことが可能です。

先の中越地震では破損した自動織機の修理、新調は投入コストを回収できないことから諦め、手機のみ事業を再開することになったという事例もありました。萎み続ける和装需要を見越すと、段取りコストが同じなら、手機の方が総合的なコスト効率が良いのです。

 

製造条件として「手織り」が指定されているから

伝統的工芸品に指定された時の条件として、昔ながらのいわゆる「手織り」であることが求められている織物があります。

力織機で織ることは技術的にもコスト的にも成り立つ織物でも「手投げ杼を利用すること」と条件に記載されている場合は手織りで作られています。

シンプルな琉球絣、手投げ杼で作られたものしか伝統的工芸品認定されない。

伝統的工芸品は伝産法という法律が絡むので明文化された公示規定がありますが、そのほかにもブランドイメージのために組合のルールや規約で手織りを要求している物もあります。

 

機械織りでは生み出せない雑味が魅力だから

それでは技術的な問題やコストの問題、ルールの問題をクリアした織物がなぜワザワザ手織りである必要があるのか、、、、

それは作り手の矜持、プライドの問題とも言えそうですが、そこから生まれた生地は実に味わい深いものになります。

機械任せにしておけば、均一な打ち込みで正確で素早く織り上げてくれます。しかし人は贅沢なもので雑味、不完全さの中にも美を見出すのです。

シンプル柄の手織り唐桟縞、人は手仕事の温もりを求める。

せっかく手間暇を惜しまず作品づくりをしているのだから、クライマックスの工程とも言える機織りを自分の預かり知らぬ間に、機械任せで終わらせてはいけないという意識が作り手側にはあります。糸を手でつむぎ、植物から抽出した染料で染め、最後の製織が自動機では、「自然」「伝統」「手間暇」という重要なキーワードが一気に崩れ、消費者としても興醒めでしょう。

人間味溢れる織物は一本一本の緯糸の対話から生まれる。写真は丹波布。

糸と一本一本対話して織りあがった生地は、作り手の人間味がほのかに現れています。それは生地の微細な凹凸であったりするのですが、それらは定量化しにくい微妙な人間臭さでもあります。いわゆる「手織りの温もり」というものですが、これは機械では測ることのできない人の第六感でこそ感じ取れるものです。

手織りの越後上布、手仕事の味が強烈に伝わってくる。

こだわりのピザ屋さんが手でこねがピザ生地を石のカマドで時間をかけて焼き上げるのか、セントラルキッチンで量産された物を効率的な業務用オーブンで加熱するのか、イメージとしては近しいものがあります。少し形が歪だったり、焦げていたりした方が良いと感じるのは決して食通だけではないはずです。

黄八丈の植物染料を煮出す用のカマド、ピザ用のカマドではありません。

AIの進化で単純作業は自動化や置き換えが進むと言われています。

すでに製織作業は100年前に機械に置きかわってしまいましたが、人の動作を再現することはできても感性までは織り込むことはできませんでした。AIがいくら進化しても、自分の手で作り上げたいという作り手の強い情熱が有る限り、それを超える物を作り出すことはできないでしょう。

AIが作った織物がいくら優れていても、人の手の温もりが感じられないモノには第六感は反応しないのです。

作家物紬、わずかに違う緯糸のグラデーションは人の感性でしか成し得ない。

以上、手織りの意義を考えてみました。

様々な理由で手織りの織物が存在し続けていましたが、最後は第六感で感じる「手織りの温もり」がキーワードになってきます。

織り手の矜持から生まれた深い味わいが私たちを魅了し続ける限り、手織りの織物はなくなることはないでしょう。

 

 

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