先日、販売店様に商品をいくつか紹介した際に、ある質問をされま…
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問屋の仕事場から
- 2019.04.09
- 伊予かすり 希少化してしまった庶民の織物
久留米絣、備後絣とともに日本三大絣に数えられる伊予絣、かつては250万反の年間生産数を誇った一大産業でしたが、現在では二桁台の生産となり数ある伝統工芸織物の中でも大変希少な存在です。かつては日本の絣織物の生産の四分の一を占めた庶民の織物が風前の灯火となってしまった軌跡を追います。
庶民に広がった絣織物
100年前の明治時代、人々が着ていたのは綿の絣織物です。江戸時代は無地、縞が主流でしたが、人々の生活、文化が豊かになると絣模様が発達することになりました。前出の久留米、備後、伊予、産地の名前を冠した絣織物は年間生産反数が数百万反という空前の規模で製造されます。今のように決められた制服がない時代、生徒を写した写真を見ていると多くが藍の絣織物を身に着けていることがわかります。
絣織物は括りによる絣糸づくり、絣合わせといった手間のかかった方法で作られます。伊予かすりが庶民に行きわたるほどに大量に作ることができたのは、江戸時代からの綿織物の産地(瀬戸内が綿花の栽培に適しており、藍の産地である阿波に近接)であることに加え、人々の勤勉な性格や器用さを示すものです。
さらに技術の進化と大量生産によるスケールメリット、自由な流通システムによって安価な木綿絣を全国にまで広げることに成功したのです。
足踏み式織機導入による効率化
江戸時代には原始的な地機(いざり機)が使われていました。経糸を腰に巻きつけて織り進める「腰機」は重労働で、1反を織るのにゆうに1か月以上はかかります。高機が19世紀初頭に導入されると効率は飛躍的(3倍)に向上、2週間で1反を織ることができるようになりました。高機も改良が加えられ、フライシャットル機構を備えたバッタン式は紐を引くだけで杼投げができるようになり、熟練工でなくても3日で1反を織るほどになりました。
さらに足でレバーを踏むことで上糸と下糸の開閉と打ち込みを同時に行うことのできる足踏み式織機が登場します。杼を左右に投げて筬を手で打ち込む必要がない足踏み式織機は様々な改良が加えられ、単純な柄だと1日で2反を織り上げることが可能になりました。大正時代の織子さんに課されたノルマは一日最低一反といわれ、足踏み式織機の導入により生産性は飛躍的に向上するようになります。
圧倒的な効率で織ることのできる足踏み式織機はあっという間に従来の高機を駆逐します。さらにこれが動力で動く力織機(1人の作業員で2台を管理可能)も現れ、合わせて一万台ともいえる新型織機が稼働することになります。手間のかかる絣作りや各種段取りも喜安式絣糸絞器や伊村式整経機が開発され効率化が図られました。
最盛期には伊予絣に関係する職工は10万人を超え、産地全体での年間の生産量が250万反を数える一大産業として発展したのです。
生産効率に優れた織機は農家の収入を補完する出機として各家に置かれました。農家のみならず、漁業関係者といった一次産業に従事する家庭にはどこにでも機織り機があったといってよいでしょう。機織りは女性の仕事で、出機は農家の余剰労働力を調整するシステムでもありますが、需要が旺盛化すると本業そっちのけで機織をしたほどでした。
行商人によって全国へ
伊予かすりが全国に広まった理由としては元々大衆向けの低価格品であったことに加え、販売に至っては行商人が活躍、瀬戸内の津々浦々から船で全国に出荷されました。大手の卸問屋を経由することのない自由な販売ルートを開拓し、北海道から奄美大島まで売り歩いたといいます。
ブローカーによる盛んな行商は全国に伊予絣を広めましたが、悪徳製造業者も横行、かなりの数の粗悪品が出回ります。悪貨は良貨を駆逐してしまう世の中、伊予かすりは安かろう悪かろう、安物の粗悪品のレッテルが張られることになりました。
ブランド力失墜により販路に窮した産地ですが、明治19年、粗悪品が市場に出回らないように販売、検査組合である「伊予織物改良同業組合」が設立されます。伊予絣と名のつくものはすべて組合の検査を受けて、組合員ではないと販売することのできないシステムにより粗悪品の一掃、信頼回復に努めました。業界関係者はすべてこの組合に加入することなり、最盛期は1万軒以上の組合員を数えることになります。結城紬といった他の織物産地でも商標管理、ブランド力を維持するためこの時期に組合を設立、今ではなかなか考えられませんがそれだけ模造、粗悪品が普及して産地を窮地に陥れていたということです。
凋落する伊予絣
一時は全国の絣織物のトップシェアを誇った伊予絣ですが、久留米絣や備後絣といったライバルに押され始めます。組合設立によって一定の品質向上が図られましたが一度定着してしまった「安物」というイメージはなかなか拭い去ることができません。組合が認める最低基準をクリアしてさえいればよいため、粗悪品ぎりぎりの商品が氾濫します。昭和に入って優良品に対しては奨励金を設ける制度ができましたが、割に合わない金額だったためなかなか全体の品質向上がなされませんでした。
一方、久留米絣では織の良し悪しによって工賃を明確に分けて品質の向上を図り、綿の絣織物として高級品の地位を確立します。中級品であった備後絣も市場シェアを伸ばして昭和30年代にはトップの座に躍り出ます。ライフスタイルの変化によって絣織物自体の需要が減り続ける中、久留米絣、備後絣は一定の生産数を維持したのに比べ、伊予絣の生産は激減してしまいました。
現在生産するのは一軒(白方興業)のみ、前身の白方機織所においては全盛期は200台以上の織機がひしめいたといいますが、現在は職工は2名、年間50~60反程度の生産になっています。
伊予絣は愛媛県の伝統的特産品として細々と作り続けられていますが、工芸織物として競争力を発揮、市場シェアを広げるのはなかなか難しい状況に置かれています。最盛期は省力化を追求してきた伊予絣でしたが、現在ではやみくもに数を作っても需要喚起ができるわけではありません。
久留米絣は力織機による工業化に成功する一方、重要無形文化財指定(手括りによる絣糸、天然藍染、手織りが条件)され、工芸織物としてのブランド化にも成功してしますが、中途半端に工業化されていた伊予絣は工藝的な趣向を極める方向にはいかず、コスト競争力にも久留米絣にはかないません。
伊予絣が廃れてしまった一因に久留米絣がコスト、品質において完全な上位互換性を持ってしまったことがあります。
そうなると独自のデザインで存在価値を見出すしかない伊予絣ですが、久留米絣といった強力なライバルに正面切って戦うことはせず共存の道を選ぶことになりました。現在では久留米などから取り寄せた絣織物を加工、工芸小物として販売するなど販路を広げています。
生き残った今治タオルとの協業
100年前は一世を風靡した伊予絣でしたが、現在は多角経営する企業の一部門としてのみの継続、産業として成り立たない状況です。そして愛媛県の繊維産業といえば今治タオル、愛媛には100年前にもタオル産業があり、広幅、小幅の各種織機で綿ネル(コットンフランネル)を織っていました。当初は手織り機でしたが、力織機の導入が進むと効率の劣る手織り機は完全に駆逐されてしまいます。伊予絣が足踏織機が主にしていた点に比べ、工業化が零細企業を含めた隅々まで行きわたり、ドビー織機やジャガード織機といった最新の織機への設備投資も行われたのです。
タオル産地としては後発だった今治は伊勢タオル、泉州タオルといった有力産地を抑えて現在では日本の繊維プロダクトを代表するといってもよいくらいブランド力(国産タオルの6割を生産)を誇るようになりました。和装需要の減退という理由があったにせよ、あっという間に消滅の危機に陥ってしまった伊予絣、両者の比較は大変興味深いものがあります。
生産規模においては対照的になってしまった両者ですが、伊予絣の伝統を守る「伊予かすり会館」と今治タオルの有名ブランド「伊織」が業務提携することになりました。
後継者不足で伊予絣の製造をすることができなくなっても、数百年にわたって人々に親しまれた意匠は残り続けます。庶民の織物としてどこか温かみのあるデザインは百年の時を超えた現代でも受け入れられるものです。和装用途という「特殊」な市場でしか存在が許されない伝統工芸品ではなく、その美しいデザインで伊予絣は世界中に羽ばたいてゆくことでしょう。