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問屋の仕事場から

2018.08.05
古銭の穴を通る!? 極薄の宮古上布

宮古上布は越後上布と並ぶ夏の最高級織物として知られています。最高級である理由はともに「手績み」の苧麻で織られているからで、糸づくりが工数の大半を占めています。両者は元になる素材は同じですがそれぞれの特徴が違いとなって現れています。今回は宮古上布の特徴である極薄の質感に注目してみたいと思います。

宮古上布は数ある伝統工芸織物の中でも一番薄いものに仕上がっています。それは極細の糸を使い、仕上げに砧うちと呼ばれる工程を経るからです。これは越後上布にはない工程で、木槌で生地の表面をまんべんなく叩きます。叩き方を間違えるとダメージで繊維が切れてしまい、この慎重な作業は熟達した職人でないと行えません。叩かれた繊維は断面が潰れて薄く引き延ばされ、紙のようにペラペラの状態になるのです。

糸には織る際の強度UPと滑りをよくするための糊(藷のデンプン)を含んでいますので、糊ごと潰されて表面に光沢が出ます。蠟引きされたような仕上がりになるのはこの糊に光が当たり乱反射するからで、湯通しを行えば落ち着いた色に戻ります。

生地を拡大してみます。

砧打ちで潰された生地、経糸と緯糸の細さが違うこともわかる。

糸が潰されて延ばされている様子がわかりますでしょうか。経糸が太いのも見てとれますが、宮古上布の経糸には双糸が使われているからです。2本の糸を撚り合わせることで強度を確保し、高機で織り上げることを可能にしています。越後上布は経糸に単糸を使いますので、経糸に強いテンションを加えない地機でしか織ることができません。これも両者の大きな違いです。

宮古上布が締め機を使い精緻な絣模様で付加価値を追求するのに対し、越後上布は地機で織ることで風合いを増しているのは興味深いことです。

廣田紬で使われている砧、叩くことで繊維がなじみ風合いが増す。宮古上布では更に大型の槌を使う。

槌で打たれることで、表面に独特の光沢が表れる。

締め機を使い、大島紬並の細かな絣が作られる。

 

天保銭の穴を通る伝説の上布

琉球を支配した薩摩藩は重税を課しますが、窮した琉球王府は先島諸島など地方に負担を求めます。宮古島にも人頭税が課され、人頭税石の伝説にもあるように島役人による厳しい取り立てが行われました。耕作に適さない宮古島では麻織物を納めることになりますが、糸の細さによって下布、中布、上布とランク分けがされていました。最上級の上布は薩摩上布として世間に知れ渡ることになります。

当時上布の中でも最高レベルの反物は古銭の穴を通ったといいます。当時流通していたのは天保通宝と呼ばれる銅貨で、この穴(穿)を反物を通すことができることになります。銅銭の穴を通るほど細い上布とはいったいどのようなものでしょうか。

当時の天保銭ですが、薩摩藩は幕末期には通貨を偽鋳(密造)しており、とりわけその穴の部分(穿)は大きく特徴のあるものでした。それでも穴の大きさは1センチに満たないもので、この間に巻き反を通すことができるとはとても考えられません。紙のような宮古上布ですが、捲いていくとどうしてもある程度の厚みになってしまい、とても10㎜以下収まるとは考えにくいのです。

宮古上布の巻き反の直径はひときわ細いが、さすがに古銭の穴(10㎜)を通すのは不可能。

古銭の穴を通ったという伝説、奇跡のような薄布は本当に存在したのでしょうか。

当時作られていた上布は、現在織られている宮古上布と異なる点があります。

まず使われていた糸自体が細く、経糸の算(ヨミ)数が多かったということです。現在の宮古上布の規格は14算(1120本)以上であることが条件ですが、当時は19や20算(経糸1600本)で段違いに細かいものが使われていました。現在も苧麻を裂いて糸づくりが行われていますが、私たちの想像を超えるクモの糸にも例えられる細い糸が作られていたのです。そのような細い糸を砧打ちで叩き延ばすと、更に平坦なオブラートのような膜ともいえる生地になります。古い宮古上布は一反200g台の物もあり、現代では考えられない軽く、薄いものに仕上がっています。

宮古上布ではありませんが、古い別産地の古布(200年以上前)があります。現在では作ることのできない極細糸を使ったもので、砧打ちされたものを拡大してみました。

砧打ちでフラットになった状態、単糸であるため糸を潰しやすい。現代のオーパーツともいえる極薄生地。

隙間がないくらい目が詰まり、平坦なものになっています。これ以上薄い生地はないというくらいの膜厚で、巻くのが恐ろしくなってしまう生地です。糸績みの達人がクモの糸を作り出し、糸が切れないように丁寧に地機で織り上げ、目が詰まるくらいに砧打ちされた生地が昔は作られていたのです。

そして当時は今とは比べ物にならないほどの量が日本全国で作られていました。玉石混交ありましたが、その数100万反超ともいわれます。全農家が糸績みに関わっていたといってよいでしょう。その中においては髪の毛より細い糸だけを集めて織ることも可能だったのです。

越後上布も最高級品は天保銭を通ったという。図録に登場する江戸中期の着物は重量が250gほど。

また当時の男性の平均身長は155cm、今よりも要尺が短かく11m程で足ります。巻き反の直径も短くなり、もしかしたら10㎜以下になったのではないかと期待できます。

もっともそのような膜のような生地は、普段に「着るモノ」としての耐久性に問題が出てくるのは容易に想像できますので、「上布」を超えた献上布であったのでしょう。

古銭の穴を通すとなると、せめてこれくらいのサイズのものが必要であろう。

 

また、麻は絹とは違い、耐久性、耐候性に優れています。2~300年前の生地でも原型をとどめて残っているものがたくさんありますので、一度その薄さを検証、現代に甦らせてみたいものです。

100年を超える生地を使い作られた宮古上布のワンピース、麻は絹に比べて格段に長持ちする。

オーパーツともいえるべき伝説の上布、それは宮古島の悲しい歴史を背負っています。江戸時代の年貢は四公六民(収穫高の4割を領主に納める)といいますが、薩摩、琉球、島役人の三重支配の中では九公一民と言われるまでの悲惨な状況だったといいいます。

島役人は生産効率を上げさせるために自宅での作業をさせず、苧績屋と呼ばれる管理工房で朝から晩まで集中的に糸づくり、機織りを強要します。身の安全はもとより、日々の家族の生活がかかった村人は、苛烈なノルマをこなすために必死の糸績みをしたことでしょう。追い詰められた村人によって奇跡ともいえる極細糸が作られたと思うと複雑な心境にならざるをえません。沖縄には様々な織物文化がありますが、安直に琉球の織物と一口に纏めてはいけないことに気づかされます。

宮古島の位地関係、先島諸島と琉球本当はかなりの距離がある。

そんな先人の苦労もあってか、宮古上布は最高級織物としての地位を得ています。現在はさすがに古銭の穴を通るまではいきませんが、数々の織物の中でももっとも薄い生地厚を誇り、惚れ惚れとする質感を放っています。宮古上布にふれる機会があればその生地の薄さにも注目してみてください。

 

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