最高級の絹織物である本場黄八丈、もとは将軍家の御用布であった…
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問屋の仕事場から
- 2018.05.28
- 紬(野良着)ではない黄八丈 ~風土、歴史編~
本場黄八丈(以下黄八丈)は数ある伝統工芸織物の中でもトップクラスの価格帯に位置しています。強く打ち込まれた緯糸の確かな質感、生糸由来の煌びやかな光沢から他の産地紬と一線を画す織物といってよいでしょう。今回はそんな高級織物、黄八丈について取り上げます。
黄八丈がつくられるのは東京都八丈町、東京から南へ約280㎞沖に位置する伊豆諸島の島です。2つの火山が隆起してできた地形はミュージカル人形劇「ひょっこりひょうたん島」のモデルになったとも言われています。海外旅行が一般化する前は日本のハワイとも呼ばれ、年間20万人もの観光客が訪れたほどでした。一時期に比べれば落ち着いた八丈島ですが、東京から50分ほどのフライトで行くことのできる穴場的スポットとして再び注目を集めています。
織物が島の名前の由来に
黄八丈という名前の由来はこの八丈島で作られた織物だからだと思われるかもしれません。大島紬などはその典型で、産地の名前がそのまま織物の名前になっています。しかし黄八丈のケースではその逆で、黄八丈を産出することから、島の名前が八丈島となったのです。室町時代は八丈島は沖島と記されており、長らく駿河の国に属していました。江戸幕府が直轄領として直接統治するようになると絹織物を年貢として課すようになります。
そのときに取引されていた単位が八丈(1疋=反物2反分)で、良質な八丈物の絹織物(八丈絹)を産出することからいつしか八丈島と呼ばれるようになりました。織物の名前が島(自治体)の名前になってしまうとは珍しいケースで、その意味からも黄八丈は誇り高い織物なのです。
また、江戸幕府はこの島を流刑地として使うようになり、明治期までに2000人もの人々が島流しとなりました。その中には政治犯や思想犯など教養のある人々もたくさんいて、宇喜多秀家をはじめとする流人たちは島にとって大きな文化、技術的影響力をもち養蚕技術も「流人文化」の一つでした。
庶民の織物ではなかった黄八丈
八丈島が江戸幕府の直轄地であったことから、八丈絹は将軍家の御用織物として扱われていました。当時の年貢は穀物ベースでしたが、平地が少ない島では栽培が困難です。そこで織物が年貢として年間500~700反が課せられ、御用船が反物を江戸まで運び入れていました。
八丈絹の品質の良さを認めた幕府は縞見本を支給し、縞格子の柄が作られるようになりました。現在の黄色を中心とした色合いや柄となったのは江戸の中期頃のようで、いつしか黄八丈(黄色い八丈絹)と呼ばれるようになりました。
そして将軍の別注品だけではなく、部下への殊勲や大奥の女中にまで広まります。そして老中であった田沼意次が一部を民間に払い下げるようになると、武士の奥方や裕福な町人が着るようになりました。そして人気役者が劇中で着用したことから流行を招くことになります。江戸後期の浮世絵などには黄八丈を着る女性がしばしば登場することから、その流行をうかがうことができます。もっとも八丈島での生産数はごく限られるものですから、他産地の類似品も相当量があったと推察されます。
江戸時代が終わり地租改正が行われても明治の後期まで黄八丈は物納されていました。島の経済を支える重要な産業として黄八丈は作り続けられたのです。
数字を追わない誇り貴き黄八丈
着物が売れに売れていた時代にも黄八丈はむやみやたらな増産路線を走ることはありませんでした。染を化学染料に変え、織りの自動機械化、島外への外注などで廉価品を作ろうとすればいくらでも売り上げは伸びたでしょう。しかし島の賢人はそれをせず、多少上下はありましたが江戸時代と変わらぬ生産数を守り続けたのです。
他産地ではオリジナル性に疑問を持つ商品の氾濫や在庫過多による値崩れがおきていますが、黄八丈においてはそのようなことにはならず、誇り貴き織物としてブランド力を保ち続けています。流通量が限られることもあって結城紬や大島紬と同じように「なんとか八丈」と銘打って他産地で類似品が作られるほどです。
成り立ちが野良着ではない黄八丈、カジュアル着物でありながらワンランク格上の着物であることはその歴史を知らなくても地風から伝わってきます。フォーマル着を着ていくのには憚られるときにすばらしく粋な一着として活躍してくれるでしょう。
※紬ではない黄八丈とのタイトルですが、一部にあえて紬糸を使った商品も存在します。
商品紹介編に続く