丹波布(たんばぬの)は従来は佐治木綿という呼び名でしたが、民…
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問屋の仕事場から
- 2019.09.25
- 青垣の里で育ち復活した丹波布
一度は人々から忘れ去られた丹波布、町をあげての復興活動によって現在では「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として作り続けられています。産業として成り立つ規模ではありませんが、復活した理由を考察することで、他産地にとっても事業継続のモデルケースになるのではないでしょうか。
丹波布は佐治地域(現在の兵庫県丹波市青垣町佐治)で農閑期に作られて綿織物(くず繭から紡いだ絹を一部に交織)で、佐治木綿、佐治しまぬきと呼ばれていました。
綿を紡ぎ、草木で染め、機織りをする。日本全国で同じような織物が沢山織られていましたが、明治に入り、ライフスタイルの変化や工業化の波に押され需要が激減、ほとんどが衰退してしまいました。佐治木綿もその一つで、いつしか人々の記憶から忘れ去られます。
その後、偶然京都の朝市で民藝運動の祖、柳宗悦によって佐治木綿は発見されます。その素朴な美しさを放つ布は丹波布として「日本工芸」で紹介され、昭和28年には工芸研究家の上村六郎氏によって再現されます。翌年には地元保存会が発足し、昭和32年には「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」に指定され完全に復活することになりました。現在では技術の伝承を目的とした丹波布伝承館が作られ、丹波市によって運営されています。
失われてしまった染織文化を復活させようと、日本各地では様々な取り組みが行われていましたが、長続きする例は稀です。個人単位では老い先に限りがありますし、企業が神輿を担いでも一時的な話題作りに終わるケースも多く、収益性が見込めないと撤退せざるを得ません。やはり地域文化として根付き、継承されていかなければ本物とは言えないのです。
青垣の里に地域文化として根付く織物づくり
昭和の和装全盛期に大きく産業として発達した各地の伝統織物、需要減となった昨今では産業として成り立たず廃業するところが増え、産地として消滅するところも珍しくありません。素朴な織物である丹波布は市場規模というレベルで語れるものではなく、他の産地が旺盛を極めている時もコツコツと少量が作られてきました。
ジリ貧状態にある各地の伝統工芸織物ですが、丹波布においてはしばらくは先行きが見通せそうです。
丹波布は分業ではなく、糸紡ぎから染色、製織まですべて一人の手で行われます。糸の細さや織の打ち込みの差は風合いの違いとなって現れ、良し悪しはともかく豊かな多様性は魅力の一つです。分業制は生産性に優れますが、一つの工程が欠けると次工程全てに影響を与えます。
一人ですべての工程を行う丹波布は携わる全員が作家ともいえます。一人で完結してもの作りをすることはクセや味につながり、商品の多様性を豊かなものにしています。
そしてカギを握るのが次世代の育成です。一人前の作り手の育成には数年という歳月がかかります。多くの産地においては未経験者の採用、教育をする体力がありません。
丹波布においては「育成」事業を丹波市が行うことで、この問題をクリアしています。「伝習生」として丹波布の製造にかかわる候補者を募集、10年以上にわたる伝習生制度の導入でコンスタントに後継者を増やし続けています。
「教育」という非常にコストのかかる部分を公的機関が担うことで確実な後継者育成が可能になります。数ある伝統工芸織物において丹波布は新規就業者/離職者の比率がダントツで高いのは注目に値します。
そして後継者を育成したとしてもその後の生計の保証は一切ありません。伝習生も織物製造業を生業とすることは難しいことを理解した上での参加です。金銭を得ることを第一目的にせず、青垣の地で育った文化(糸をつむぎ、地元の草木で染め、一つ一つ織り上げる)の継承を通じた自己実現の場として、志のある人たちが集まってきているのです。
本来は農閑期の副業であった織物作りが産業化されてしまうとどうしても市場の意見を聞かざるを得ず、無理なコストダウンも必要になってきます。丹波布においては頑固なまでに伝統を守り、数ある伝統工芸織物の中で最も「プリミティブ」なものの一つになっています。着実に受け継がれてきた染織文化は、商業的なノイズに左右されることなく、細々とではありますが末永く続いてゆくことでしょう。
廣田紬では丹波布に早くから注目してお取り扱いさせていただいています。いくらよい製品でも流通機能が不完全であれば在庫の山になり、新しいもの作りにつながりません。この愛すべき素朴な布の良さを全国に伝え続ける使命を担うのは問屋の本懐でもあります。柳宗悦が賞賛した「静かな渋い布」、玄人好みかと思われがちですが、是非その素朴な美しさを手に取って感じてみてください。